エイズと大統領夫妻と薬物使用 ICAAP2009報告

(解説) 8月9日から13日までインドネシアのバリで開かれた第9回アジア太平洋地域エイズ国際会議(ICAAP)は最終的に参加者が約5000人という大会議だったようです。会議に参加したエイズ&ソサエティ研究会議の樽井正義副代表の報告です。



エイズと大統領夫妻と薬物使用
 第9回アジア太平洋地域エイズ国際会議(ICAAP)からの一つの報告

                                  樽井 正義

 神戸からスリランカのコロンボを経て、第9回ICAAPは2009年8月9日より13日まで、インドネシアのバリで開催された。2,300を超えるアブストラクトから選ばれた約350により64の口頭発表セッションが組まれ、プレナリー、シンポジウム、スキルズビルディング・ワークショップ、さらにサテライトを加えるとセッション総数は約200。参加者数は、78ヵ国からスカラシップ2,000を含む3,824の登録、それに218のボランティア、運営スタッフなど、計5,500名を超えた。いずれもこれまでで最大規模のICAAPで、とくに気づいたことを3つ挙げたい。

政治的リーダーシップの発揮
 バリの文化公園、そのヒンズー教ガルーダ像の前で開催された9日夜の開会式で、アニ・ユドヨノ(Ani Yudhoyono)大統領夫人は、これに先だって行われた各国エイズ大使会合の声明を発表した。そこではHIV感染の予防、治療、ケア、サポートを必要とするすべての人に提供する「普遍的アクセス」(Universal Access)という2010年までの国際的目標が確認され、目標達成のためにはそれらを必要とする人びと、わけてもセックスワーカーとその顧客、薬物使用者とそのパートナー、男性とセックスする男性(MSM)との協力が不可欠であることが強調された。
 開会宣言はスシロ・バンバン・ユドヨノ(Susilo Bambang Yudhoyono)大統領によって行われた。一月前の直接選挙で圧倒的支持を得て再選が決まった直後に、ジャカルタで連続爆破テロが起こされたが、これを引き合いに出し、人間の安全保障の観点からもHIV対策の重要性を指摘した。そして前述の個別施策層との取り組みと、そこでのコンドームの普及やハームリダクション(harm reduction、注射薬物使用者の感染予防策、後述)の推進との必要性を強調し、同じことをエイズ大使として説いた夫人を、夫として誇りに思うと述べた。この発言に、参加者から大きな拍手が送られた。
 インドネシアは多民族・多宗教の国家だが、国民の4人に3人はイスラムである。イスラムでは性労働、同性愛、麻薬は厳禁されており、それゆえにイスラム諸国は、国内には存在しないはずのセックスワーカー、MSM、薬物使用者を、2001年と06年の国連総会宣言で列挙することに強固に反対した。しかしインドネシア27万の陽性者の過半の感染原因は薬物使用にある。この事実を率直に認め、HIVの予防と治療に邁進する姿勢を、国家元首は率先して示した。これは、幾多の困難の中で取り組みを進めている会議参加者、そしてインドネシアの多くの国民に対して、強力な励ましとなった。まさに「みんなを励まし、ネットワークを強化しよう」(Empowering People, Strengthening Networks)というバリ会議の標語の実践であり、この疾患の対策において必須とされる政治的リーダーシップのなによりの実例と言えるだろう。(国連合同エイズ計画(UNAIDS)による開会式のプレスリリースの邦訳はhttp://asajp.at.webry.info/200908/article_2.html参照)

ハームリダクションの導入
 この地域の最大の課題は、治療の普及と並んで前述の個別施策層における感染予防の取り組みである。UNAIDSが昨年春に作成した現状分析と提言「アジアのエイズ再定義 - 有効な対策を作る」(エクゼクティブサマリーの邦訳はhttp://asajp.at.webry.info/ 200808/article_1.html参照)では、この対策の費用対効果がきわめて高いことが指摘されている。今回のICAAPで気づかされた二つめは、個別施策層がそれぞれに困難を克服し、対策を確実に前進させていることである。ここでは薬物使用者について言及する。
 ハームリダクションはパイロットスタディの域を超え、地域に広く政策として採用されつつある。これは薬物使用者の注射による感染(被害)を予防する対策であり、情報と相談、(回し打ち回避のための)清潔な注射器、(注射ではなく経口の薬剤による)代替療法、この3つの提供を柱としている。
 薬物使用を違法とする国では、使用はもっぱら犯罪として扱われ、依存と薬害という保健問題としての対応が疎かにされる傾向にある。清潔な注射器の配布は薬物使用を奨励することになり、代替薬剤のメサドンもまた麻薬だとする見方が根強い。しかし、ハームリダクションの導入が薬物使用を拡大させるというエビデンスは無く、反対に感染予防の効果を、さらには麻薬に関わる犯罪(ヘロインを買う金を得るための窃盗など)抑止という副次的成果を示すエビデンスが蓄積されてきている。
 このハームリダクションが、ここ2-3年、この地域のいくつかの国で政策として展開され始めている。イスラムを国教とするマレーシアでも、2006年に保健省が導入に踏み切った。陽性者8万5千人、新規感染の6割近くが薬物使用者だが、02年から減少に転じていた新規感染は、07年以降その傾向を強めている。
 インドネシアでは07年に政策とされ、薬物使用者の全国ネットワークも形成された。05年の試行段階で17の注射器交換施設が08年には182に、メサドン・クリニックは3から35へと拡大している。
 中国では06年からの第2次エイズ5カ年計画のなかで、08年に麻薬取締法が改正された。陽性者30万人のうち薬物使用者は3割を超え、また把握されている薬物使用者113万人の半数が注射器を使用し、さらにその4割が共用しているとされる。ハームリダクションの導入は、08年だけで3,377の新規感染を防ぎ、ヘロイン消費を16.5t減らし、10億米ドルの薬物取引を阻んだと推計されている。
 前回07年のICAAPでは、台湾における03-05年の感染急増と、06-07年のハームリダクション導入による激減が注目された。今回の会議では、対策がいくつもの国で進展していることが示された。しかしたとえばマレーシアのように薬物所持で極刑を定めている国、麻薬を「公共の敵No.1」として2015年までの「撲滅」が政策の主流とされている国では、薬物使用者へのハラスメントも依然として続いており、保健サービスへのアクセスが困難にされている。またインドネシアのように、ハームリダクション政策の費用を世界基金など国外に依存している国では、その継続は大きな課題として残されている。
 さらに今回のICAAPでは、C型肝炎との重複感染への対応が余りに不十分なことに、市民社会から強い批判が向けられた。ARV同様価格の問題に加えて、肝臓に配慮したARV選択といった課題に直面している重複感染者は、世界で400-500万人に及ぶという。日本がもつ知見は、この領域でも貢献が期待されているように思われる。

エイズの女性化
 世界会議や地域会議の開催に合わせて公刊される文書がある。今回もAPN+からは「ダイヤモンド」(Diamonds - Stories of Women from the Asia Pacific Network of People Living with HIV)、文字通り輝いている11名の女性の物語が収められている(http://www.apnplus.org/)。UNAIDSとaids2031からは「急速に変貌するアジア経済: HIVの現在から2031年に向けて」(Asian Economies in Rapid Transition: HIV Now and Through 2031)が出された。aids2031とは、最初のエイズ報告から50年目に向けて、HIV対策の「短期的危機管理から長期的持続的対応へ」の転換を探る国際的セクター横断コンソーシアムだが、その作業の一環として、中国、インド、インドネシア、マレーシア、タイ、ベトナムの6ヵ国の動向が取り上げられている(http://www.aids2031.org/pdfs/)。
 UNAIDSからもう一つ、「アジアにおける親密なパートナーからのHIV感染」(HIV Transmission in Intimate Partner Relationships in Asia)。これは、アジアでは5,000万人の女性が、夫や恋人から感染するリスクにさらされているとする警告である。
 これは、全世界のこれまでの陽性者累計に迫る数字だ。しかしアジア太平洋では、現に女性陽性者170万人の約90%は親しいパートナーから感染しており、陽性者における女性の比率は1990年の17%から、2008年には35%に倍増している。外国籍労働者を含むセックスワーカーの客7,500万、薬物使用者400万、MSM1,600万のなかには女性のパートナーを持つ者もいる。そこからリスクに直面している女性の数が推計されている。(UNAIDSのプレスリリースの邦訳はhttp://asajp.at.webry.info/ 200908/article_3.html参照)
 「エイズの女性化」(feminization)は、世界的傾向を示す言葉として数年前から使われている。サブサハラでは陽性者に占める女性の比率が6割を超えているが、世界のどの地域でも女性の割合は増え続けている。アジアにおけるその構造と規模が、この報告で初めて明らかにされたと言えるだろう。

 最後に今回のICAAPに大きな貢献をされた方から、何人かの名前を挙げておきたい。開会式の大統領夫妻のスピーチは、にわか仕立ての挨拶ではなく、関係者が多年にわたって働きかけ続けた成果に他ならない。その筆頭は、インドネシアで90年代初めからHIVに取り組み、WHOのジェンダーと女性の健康局長を経て、現在は国家エイズ協議会(NAC)代表を勤める小児科医ナフシア・ムボイ(Nafsiah Mboi)だろう。彼女は組織委員会の第3副代表であり、代表のズバイリ・ジョルバン(Zubairi Djoerban)は率先して治療を引き受けてきた国立インドネシア大学の内科教授である。彼女はまた、昨年の北海道洞爺湖サミットで保健システム強化(health system strengthening)を途上国支援の柱として勧告した武見敬三を、プレナリー・スピーカーとして招待した。
 神戸会議の準備過程からUNAIDS地域支援チームを率いたプラサダ・ラオ(Prasada Rao)も、コロンボ会議からアジア太平洋エイズ学会(ASAP)代表を勤めてきたチョー・ミュンホァン(Cho Myung-Hwan)も、このICAAPを最後に任を終える。次の第10回ICAAPは、お隣の釜山で2011年8月26日から30日まで開催される。

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この記事へのコメント

Lee
2009年08月22日 16:07
樽井さん 速報をありがとうございます。
>>WHOのジェンダーと女性の健康局長を経て、現在は国家エイズ協議会(NAC)代表を勤める小児科医ナフシア・ムボイ(Nafsiah Mboi)だろう。>>>
彼女は、そうした素晴らしい貢献がある方だったのですね。移住者とHIVに取り組む立場としては、学会で彼女が移住者の海外出発前にはPICTを推進したらいいという発言に青ざめました。インドネシアという移住者が多い国のNAC代表としては移住者とHIVについてもっと学習が必要だという印象を受けました。

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