国際感染症関係論1~6

(解説)「国際感染症関係論」は2006年11月創刊の日刊紙Sankei Expressに週1回(金曜日)、掲載されています。筆者はAIDS&Society研究会議の理事であり、HATプロジェクトの担当者でもある産経新聞編集長、宮田一雄で、HIV/エイズを中心に感染症と社会をめぐる話題を取り上げています。


国際感染症関係論1 北京五輪の現場から(2006年11月3日)
 2008年の五輪開催に向けて、北京ではいま、関連施設の建設工事が急ピッチで進められている。東京、ソウルに次いで、アジアで3番目の夏季大会となる北京五輪は、中国にとって国家の威信をかけた巨大プロジェクトなのだが、それと同時に、感染症対策の専門家にとっては大きな悩みの種でもある。
 地球規模のエイズ対策を推進する国連合同エイズ計画(UNAIDS)は9月12日、その北京の様子をウエブサイトで次のように伝えている。
 《中国は競技場や宿泊施設などの建設を進め、開催国としての準備を急ぐ中で、北京に集まる何千何万という建設労働者を対象にHIV/エイズ啓発の努力もあわせて続けている》
 蛇足の説明を付け加えれば、HIVというのはエイズの原因となる「ヒト免疫不全ウイルス」のことである。なぜ努力が必要なのか。ウエブサイトをもう少し見ていこう。
 《北京の建設現場で行なわれた啓発活動のひとつには、200人以上の労働者が集まった。エイズ関連のパンフレットやポスター、カード、コンドームなどの展示と配布を通じ、労働者たちはHIVに関する情報や感染防止法などを知ることができた》
 中国エイズ/STD(性感染症)予防対策財団と北京市保健局が主催したこのイベントの中で、UNAIDSのジョエル・レンストローム中国地区調整官は「感染予防の情報や手段を得にくいという事情もあり、長期的に家族と離れて暮らす移住労働者は、HIV感染の高いリスクにさらされることが多くなる」と注意を促した。
 建設ブームに沸く大都市には、働き盛りで性的にも活発な青壮年層が地方から集まり、家族と離れて孤独な日々を送る人たちが巨大な人口層として都市内部に出現する。男女、あるいは同性か異性かを問わず、金銭で性の相手を得る行為が増え、薬物依存の誘惑に抗しきれない人の数も増える。
 貧困がエイズの流行を広げてきたことはしばしば指摘されてきたが、貧困を脱し、豊かさへ向かうための開発もまた、流行の大きな拡大要因になることを北京の現状は示している。


国際感染症関係論2 2006年 3つの節目(2006年11月10日)
 地球規模のエイズ対策の中で今年は節目の年とされている。米国でエイズの最初の公式症例が報告された1981年から25周年になるからだ。
 もちろん、明確に認識されていなかっただけで、公式報告以前にもエイズは少しずつ世界に広がっていた。一方で、この病気がエイズ(AIDS=後天性免疫不全症候群)と命名されたのは81年ではなく、翌82年になってからだった。
 つまり、エイズが人類の前に登場したのは実質的にも、名目的にも、81年ではないのだが、じゃあ、エイズの流行はいつから始まったのかと問われると、答えはなかなか見つからない。
 そこで世界はいま、米国の最初の症例報告があった81年6月5日を「後にエイズと呼ばれる重大な感染症の流行が公式に認識された日」ととらえ、この日を起点に「エイズの流行が始まって20年」とか、「エイズ25周年」と表現するようになっている。
 もうひとつ、今年は2001年の国連エイズ特別総会からの5周年でもある。この総会は21世紀最初の年の6月25日から3日間、ニューヨークの国連本部で開かれ、最終日の27日、コフィ・アナン国連事務総長が「人類は初めてエイズとの戦争の戦略計画を手にした」と評したコミットメント宣言を全加盟国の賛成で採択している。
 宣言の中で加盟国は、拡大するエイズの流行に歯止めをかけるために、03年、05年、10年の3つの締め切りの年を設け、具体的な対策の実施を約束した。その約束がどこまで果たされているかを検証するため、国連本部では今年5月31日から3日間、国連エイズ対策レビュー総会も開かれている。
 そうした世界の流れと呼応するかのように、国内では日本エイズ学会が発足20年目を迎え、11月30日―12月2日に東京で第20回日本エイズ学会学術集会を開催する。
 回数の区切りがいいだけでなく、今年は特別非営利活動法人「ぷれいす東京」代表の池上千寿子さんが学会長を務めることでも注目されている。会長が医学者ではなく、NPOのメンバーであることも、女性が会長になることも、エイズ学会では初めてだからだ。


国際感染症関係論3 中国外交とWHO事務局長(2006年11月17日)
 世界保健機関(WHO)の次期事務局長に中国が推すマーガレット・チャン事務局長補(感染症担当)が選出された。5月に李鍾郁(イ・ジョンウク)事務局長が硬膜下血腫で亡くなり、現在はノルドストルム事務次長が事務局長代行を務めているため、チャン氏は来年1月、新事務局長に就任する。
 WHO事務局長の任期は通常5年だが、今回は現職の急逝という緊急事態を受けた選挙だったため、チャン事務局長の任期は2012年6月までの5年半とやや変則的になる。
 チャン氏はWHOの女性事務局長としては李鍾郁氏の前任のブルントラント氏(元ノルウェー首相)に次いで2人目。WHOに入る前は香港の衛生局長を務め、1997年の高病原性鳥インフルエンザの流行では大量の鶏の殺処分をいち早く決断、2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の流行でも香港で対策の指揮を執った。
 地球規模で拡大するエイズの流行や「いつ出現してもおかしくない」とされる新型インフルエンザなど、新興感染症対策が重視される時代だけにチャン氏に対する期待は小さくない。
 その一方で、チャン氏が中国政府の票固めの結果、選挙に勝ち抜いたことへの懸念も、これまた小さくない。SARSの情報を公開せず、エイズ対策でもエイズの原因となるHIV(ヒト免疫不全ウイルス)が売血で広がったことを隠蔽するなど、感染症分野で中国はこれまで、国際社会の不信を招く行為をしばしば繰り返してきた。
 今後そうした事態に遭遇した場合、中国政府に必要な対応をきちんと求められるのかどうか。チャン氏は次期事務局長に正式承認された11月9日のWHO総会後の記者会見で「中国国籍を持っているが、国籍にこだわらず、世界の健康増進のため、全加盟国のために尽くす」と語ったという。
 新事務局長の選出を英フィナンシャル・タイムス紙は「中国外交の大勝利」と報じた。チャン氏の言葉に期待するとともに、中国政府にはその「成果」を情報の隠蔽などに使うのではなく、より信頼される大国を目指すために活用するよう求めておきたい。


国際感染症関係論4 人材生かしきれない日本外交(2006年11月24日)
 世界保健機関(WHO)の次期事務局長に香港出身のマーガレット・チャン事務局長補(感染症担当)が選出されたことを欧米の新聞は「中国外交の勝利」と伝えた。中国推薦の候補だったからだ。それは裏を返せば「日本外交の敗北」ということでもある。
 日本政府は8月30日、WHO西太平洋地域事務局長の尾身茂氏を事務局長選の候補として正式に推薦した。このときの外務省のウエブサイトは尾身氏をこう紹介している。
 《1990年よりWHO西太平洋地域に勤務し、1999年に西太平洋地域事務局長に就任しました。尾身候補は、東アジアを含む西太平洋地域からポリオを根絶し、2003年の重症急性呼吸器症候群(SARS)、2005年の鳥インフルエンザ勃発の際には迅速・機敏に対応するなど極めて評価の高い人物です》
 個人的な印象で恐縮だが、エイズ対策や新型インフルエンザ対策で尾身氏を取材した私自身の経験からも、尾身氏はWHOの指導者として申し分のない資質を備えているように思う。
 外務省のウエブサイトにはさらに次のように書かれていた。
 《WHOは保健問題をグローバルな視点から解決していける唯一の専門機関です。鳥インフルエンザや新型インフルエンザ、世界の三大感染症といわれるエイズ・結核・マラリアの蔓延・世界の人口が急増する中での保健システムの構築といった課題に迅速かつ適切に対処するためには、WHOの機能をさらに強化する必要があります。次期WHO事務局長に求められるのは、まさにこうした課題への対処のため、世界をリードしていくことができる人物です》
 だからこそ日本政府は自信をもって尾身氏を推薦したというわけだ。
 保健分野は国際協力が不可欠なだけに、国の面子や勝ち負けに過度に執着することは避けるべきだが、その一方で、実績、手腕とも国際的に高い評価を受けている尾身氏ほどの人材を国際舞台で生かしきれないようでは、日本の国際貢献も心もとなく思えてくる。今回の選挙を少し振り返ってみよう。


国際感染症関係論5 人もウイルスも移動する(2006年12月1日)
 国内では実に36年ぶりという狂犬病の患者が2人、相次いで報告された。いずれもフィリピンで犬にかまれ、日本で発症が確認されたという。
 韓国では鶏の大量死が発生し、高病原性鳥インフルエンザウイルスH5N1に感染していたことが確認された。H5N1は鳥のウイルスなのだが、東南アジアや中国では鶏から人への感染も断続的に発生している。
人に感染する機会が増え、ウイルスが何かの拍子に変化すると、新型インフルエンザが瞬く間に世界に広がる恐れがある。
 12月1日の世界エイズデーを前に、国連合同エイズ計画(UNAIDS)は世界のHIV陽性者数の最新推計を発表した。4半世紀に及ぶ流行を経てもなお、エイズの原因とされるHIV(ヒト免疫不全ウイルス)の感染は、世界のすべての地域で拡大を続けているという。
 この連載は週1回、毎週金曜に掲載されている。1週間も間が開くと、いろいろなことがあり、あれも書かなきゃ、これも大切、と気ばかりがあせってくる。海外の出来事であっても、その影響はさまざまなかたちで国内に波及してくるからだ。21世紀は人も物もウイルスも大きく地球上を移動するグローバル感染症の時代でもある。
 その現実を踏まえ、いましばらく世界保健機関(WHO)の事務局長選の話を続けたい。ジュネーブで開かれた11月6―8日の執行理事会で、WHOは11人の候補者の中から香港出身のマーガレット・チャンWHO事務局長補(感染症担当)を次期事務局長に選出し、9日の総会で正式に承認した。
 34カ国で構成する執行理事会は6日に予備選で候補者を5人に絞り、1日おいて8日に本選挙を行なっている。5人の中には中国推薦のチャン氏のほか、日本が推す尾身茂WHO西太平洋地域事務局長も含まれていた。
 本選挙は過半数の18票を超える得票者が現れるまで、最下位だった人を外し、候補者を1人ずつ減らしながら投票を繰り返す方式で進められ、尾身氏は3回目に脱落した。得票はチャン氏15票、メキシコのフリオ・フレンク保健相10票、尾身氏9票だった。


国際感染症関係論6 実を結ばなかった援助実績(2006年12月8日)
 しつこいようで恐縮だが、日本政府は8月30日、世界保健機関(WHO)の事務局長候補として尾身茂WHO西太平洋地域事務局長の推薦を正式に決定した。この時の紹介文を外務省のウエブサイトから引用しよう。
 《日本は、世界の保健問題を国際協力における最重要分野の一つとして常に位置づけ、世界をリードする協力を行っています。日本は特に、保健問題に対する包括的アプローチを重視し、各国における幅広い保健・疾病対策を支援してきました》
 日本政府は2000年7月、九州沖縄サミットで沖縄感染症対策イニシアティブ(IDI)を発表し、当時の森喜朗首相が地球規模の感染症対策のため、途上国に5年間で30億ドル相当の支援を約束している。
 IDIは金額的に当初構想を上回る支援実績を残し、世界エイズ・結核・マラリア対策基金創設のきっかけを作ったことでも国際的に評価された。日本は感染症対策の分野で、「金だけ」でなく、アイデアの面でも国際社会をリードするかたちになったのだ。
 昨年6月には、IDIを引き継ぐかたちで「保健と開発」に関するイニシアティブが発足し、当時の小泉純一郎首相が「5年間で50億ドルを目途とする貢献」を表明している。問題は、それほどの貢献をしてもなお、WHOの事務局長選で途上国の多くが日本ではなく、中国の推薦するマーガレット・チャン氏の支持に回ったことだ。
 WHO執行理事会の投票は秘密投票なので、あくまで推測ではあるが、尾身氏に投票するはずだったのにチャン氏に入れた国が少なからずあったという。各国の尾身氏に対する事前の評価は低くなかっただけに、この結果は日本にとってショックだった。
 中国と日本をめぐる援助外交の苦い現実の一方で、国内でも社会の無関心がエイズの流行の拡大を招くなど感染症分野の危機が進行している。新型インフルエンザに対する備えも必要だ。安倍政権にはこの際、WHO事務局長選の外交的敗北を逆に尾身氏のような人材を活用する好機ととらえ、感染症対策担当の補佐官に起用するぐらいの戦略眼を期待したいところである。

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