新型インフルエンザとHIV/エイズ  リスク報道メモ1

 (解説) 新型インフルエンザの流行に対する懸念が高まる中で、リスクコミュニケーションの必要性が指摘されている。それではリスクコミュニケーションとは何か。HATプロジェクトでは、先行する新興感染症のパンデミック(世界的大流行)であるHIV/エイズの経験を踏まえつつ、新型インフルエンザ報道に備えるためのメモ作成した。


 新型インフルエンザとHIV/エイズ  リスク報道メモ1

1. はじめに

 アジアを中心に高病原性鳥インフルエンザウイルスH5N1の感染が拡大し、東南アジア諸国や中国では鶏から人への感染も報告されていることから、新型インフルエンザのパンデミック(世界的流行)への懸念が高まっています。未知の感染症の世界的流行の先行事例であるHIV/エイズの流行とその対策の経験は、予想しうる新興感染症としての新型インフルエンザの対策に役立てることができるのかどうか。リスク報道の観点を中心に検討していきます。

新型インフルエンザウイルスは登場すれば、感染力が非常に強いウイルスになることが予想されます。感染経路もエイズの病原ウイルスとされるHIV(ヒト免疫不全ウイルス)とは異なります。また、急性感染症であるインフルエンザの場合、回復すれば、ウイルスが感染した人の体内に残ることはありません。この点もHIV感染とは異なります。

 隔離や渡航制限、出勤停止、集会自粛など、HIV/エイズに関しては対策上の根拠がなく、負の効果しかもたらさないと考えられてきた強制的な措置も、新型インフルエンザ発生時には相当程度、有効だと考えられています。したがって、そのような強制措置をどこまで受け入れることができるのかという個人や組織、集団の権利とその制限をめぐる議論が新型インフルエンザ対策では大きく浮上してきます。

 病院における患者の受け入れ体制や社会の対応に関しても、HIV/エイズ対策では避けるべきだとされているのに、新型インフルエンザ対策では積極的に採用すべきだと考えられるものが少なくありません。新型インフルエンザ対策とHIV/エイズ対策の安易な同一視は混乱を招き、対策の効果を損なう恐れもあります。

 しかし、新型インフルエンザ登場前夜ともいえる現在のような時期には、HIV/エイズ対策との共通点、共通の補助線といったものもまた、相違点以上に数多くあります。
危機的な状況においては不安や恐怖の感情に強く支配された社会的反応が容認される傾向が強くなります。そうした事態に直面したときには、集団的な社会感情にまかせて極端に理屈に合わない対策や行動が取られることを防ぐ手立ても必要です。とくに、困難な病との闘いを続けている患者やその家族は、抽象的な数字や得体の知れない怪物などではなく、具体的な人間なのだというごく平明な事実を常に認識しておくことが大切になります。この点でもHIV/エイズ対策の経験は、ハンセン病などさらに先行する感染症の教訓とともに重要な意味を持っています。


2.現状

 新型インフルエンザの流行は、本来は鳥のインフルエンザウイルスであったものが、人から人へと次々に感染する新しいウイルスに変異することで発生します。当面、そうした新型ウイルスに移行する可能性が高いと懸念されているのが、高病原性鳥インフルエンザウイルスH5N1です。

世界のどの地域であれ、新型インフルエンザウイルスの感染が始まれば、そのウイルスは短期間のうちに世界中に広がると考えられています。新型ウイルスの登場からパンデミックに至る期間は2、3週間程度という推定もあります。

ただし、新型インフルエンザウイルスがいつ登場するのかは分かりません。いますぐかもしれないし、10年後かもしれない。うまくすれば大流行に至らずに終わるかもしれません。

現在の対策は、新型インフルエンザが発生しないように時間を稼ぎ、その間に最も厳しい流行の発生にも対応できるよう必要な準備(あるいは準備のための条件整備)を急ぐことが考え方の基本になっています。対策は一国だけで完結するものではなく、各国政府や国際機関、企業、市民社会組織などが、それぞれの立場から関与し、情報を共有しつつ進める必要があります。そのための国際社会の動きもこの秋以降、にわかに活発化しています。

こうした方針は誤ってはいませんが、未だ発生していない感染症の流行に備えて対策に取り組み、必要な予算を緊急に獲得するには、社会の理解を得る必要があります。短期的に見れば、最も効果的な方法は「流行がいまにも迫っている」という警告のメッセージを強調することであり、現にそのような警告は世界保健機関(WHO)をはじめとする国際機関や各国政府からしばしば発せられています。

新型インフルエンザのアウトブレークに備えた対策が先進国ですら不十分な現状では、そうした警告が差し当たって必要なメッセージであることは否定できませんが、結果として、それが社会に不安や恐怖の感情を広げ、合理的な対策の遂行を困難にする可能性もあります。恐怖のメッセージが諸刃の剣であることはHIV/エイズ対策でもしばしば経験してきたところです。

 新型インフルエンザは未知のリスクではありますが、すでに分かっていること、予測可能なことも少なくありません。なぞの病気として出現したSARSの流行初期とはその点が異なっています。

まず、病原体がウイルスであることは分かっているという前提があります。先行のインフルエンザの流行の経験により、症状や感染経路も想定できます。有効性を期待される薬があり、その薬の備蓄を対策の選択肢に組み込むこともできます。一定の時間はかかりますがワクチンの製造、供給も可能です。人に感染した鳥インフルエンザウイルスをもとに「つなぎのワクチン」といったものなら開発の準備も始まっています。

 こうした状況の下で新聞やテレビ、雑誌では当面、以下のような点を中心に新型インフルエンザに関する報道が行われています。
(1) 高病原性鳥インフルエンザウイルスH5N1の鳥の感染流行情報
(2) H5N1の鳥から人への感染情報
(3) H5N1の人から人への感染およびその可能性に関する情報
(4) 新型インフルエンザの流行予測
(5) 過去の新型インフルエンザの流行に関する情報
(6) 高病原性鳥インフルエンザおよび新型インフルエンザに関する基礎知識
(7) 国際社会の鳥インフルエンザ対策への取り組み状況
(8) わが国の新型インフルエンザ対策の動向
(9) 抗インフルエンザウイルス薬の備蓄状況
(10)鳥インフルエンザの流行にまつわる社会的な不安や混乱を象徴するような内外の現象

 とくに、この秋以降は、9月にブッシュ米大統領の国連演説、10月に欧州での鳥のH5N1感染の報告といった動きが加わり、高病原性鳥インフルエンザ対策を急務とする国際世論が急速に盛り上がりました。その結果、わが国でもインフルエンザに関する報道量が増え、扱いも大きくなって「いまにも新型インフルエンザが流行する」といった印象が強まっています。

 これは、以前から細々とではあっても報道されてきた(1)~(6)に加え、(7)の要素が加わり、それが(8)~(10)にも影響を及ぼした結果ということができます。
報道の扱いが大きくなり、社会の関心が高まる(あるいは高まったような印象が持たれる)ことで、政府が(7)~(9)への新たな行動を起こすと、それがさらに報道の機会を増やすことになります。逆に政府が(7)~(9)に関する新たな行動を起こすために報道の機会が増えるような情報を積極的に提供し、その結果、実際に報道の機会が増えて社会の関心が高まるといった現象も見られます。

 実際にウイルスの感染が広がっているわけではないのに、情報の伝播がもたらしたバーチャルな現実が政策を動かし、人々の行動も変えていくといった情報と現実との微妙な(というか、かなり露骨な)相互作用は、HIV/エイズの流行でもしばしば経験してきたものでもあります。感染症対策が情報の伝達やコミュニケーションのあり方と密接に関係した課題であることは認識しておく必要があるでしょう。


3.準備期間

新型インフルエンザは、発生すれば短期間で世界的な大流行(パンデミック)になると予想されていますが、いつ流行が始まるのかは分かりません。個人的には数年単位の待ち時間(パンデミックに備えた準備期間ともいえます)があるのではないかと思いますが、そう断言できる根拠はありません。

したがって、新型インフルエンザ対策に関しては、想定される事態に対応するための準備が急務であることを強調する必要はもちろんあります。ただし、その一方で、にわかに高まった関心がどこまで持続するか、関心が低下してきたときにどうするかといったことも同時に考えておくことが大切です。

「新型インフルエンザの流行がいまにも来る。大変だ」というメッセージは、短期的な注意喚起としては有効かもしれませんが、「いまにも来なかった場合」を考えると、「なんだ、たいしたことはなかったじゃないか」との印象が強まり、何カ月か先に急速に関心が失われることもありえます。感染症対策はもっと長いスパンで考える必要があるのに、社会が情報化すればするほど、ニュースの賞味期限は短くなり、過去のニュース(元ニュース?)はどんどん忘れられていきます。今年の5月か6月に関心を集めていたのはどんなニュースだったのか。なかなか思い出せません。 

インフルエンザ治療薬が存在していることから、特効薬願望ともいうべき社会的風潮が強まり、関心が治療薬の備蓄にのみ集中して、そのほかの対策は無視されてしまうような事態を招くおそれもあります。

恐怖や不安の感情に訴えて社会の危機感を高めることは、短期的には効果があるかもしれませんが、それだけが強調された場合、長期的にみると必要な対策を辛抱強く積み重ねていくことを妨げる結果になりかねません。これはHIV/エイズ対策が経験した苦い教訓のひとつです。新型インフルエンザ対策も、待機の期間が長くなれば、現在のような急速な関心の高まりを常態として期待することはできなくなります。そのときにどのようにして関心の持続をはかり、必要な準備を積み重ねていけるようにするのかが大きな課題となります。

また、病気と闘う人、病に苦しむ人に対する想像力が失われ、重大な人権侵害や特定の個人、集団に対する迫害などを引き起こす恐れは、新型インフルエンザのアウトブレークを待つまでもなく、いくつかの場面で想定できます。マスメディアにとっては、そうした事態を避けるための取材、報道上の工夫も重要な課題です。その点では、いくつかの事件や事故の報道で試みられてきた集団的過熱取材の回避策とその経験を踏まえた反省が参考になります。


4.新型インフルエンザとリスク報道

鳥インフルエンザ、新型インフルエンザの報道では、以下の8つの場面でマスメディアの取材、報道のあり方が問われる事態が想定されます。
(1)国内における家禽類のH5N1感染の発生
    (2004年に山口、大分、京都で先行の報道事例があり、京都のケースでは養鶏場経営者が自殺しています)
(2)国内におけるH5N1の鳥から人への感染
    (京都では人への感染が関係者を対象にした事後調査で、かなり後になって判明しました。ただし、発症は確認されていません)
(3)国外における日本人のH5N1の感染
(4)国内におけるH5N1の人から人への感染
(5)国外における新型インフルエンザウイルスの人から人への感染情報
(6)国外における日本人の新型インフルエンザウイルス感染の情報
(7)国内における人の新型インフルエンザウイルス感染の報告
(8)国内における人から人への新型インフルエンザウイルス感染の報告

(5)~(8)は新型インフルエンザ発生時およびそれ以後ですが、(1)~(4)は鳥インフルエンザの段階のものです。つまり、リスク報道としての新型インフルエンザ報道の課題は、すでに想定上にとどまるものではありません。新型インフルエンザの発生を待つことなく、取材、報道のあり方を検討していく必要があります。

三カ月、半年、あるいは一年後といった極めて近い将来における新型インフルエンザの発生が回避されることは、想定しうる危機に対する準備期間がそれだけ長く確保されることでもあります。その意味で歓迎すべきことなのですが、準備期間の長期化は同時に社会的な関心の低下にどう対応するかという新たな課題をもたらすことにもなります。
また、その間にも(1)~(4)のような場面があれば、洪水のように報道があふれだす時期が一時的に生じます。集団的過熱取材とされるような混乱の発生も懸念されます。そうした事例が積み重なると、治療を受けにくい雰囲気、自らの病気を早期に把握することを妨げるような動機付けが社会の中に広がっていく懸念もないわけではありません。それが個人や企業による報告の遅れをもたらし、事態把握に必要以上の時間がかかってしまう可能性もあります。

四半世紀にわたるHIV/エイズの流行を報道の観点から見た場合の苦い経験は、不安や恐怖のメッセージに基づく過剰な関心とその反動ともいうべき無関心が交互に繰り返され、その振幅があまりにも大きかったことです。ゆるやかに拡大する危機に対し、社会が過不足なく対応するには、その振れ幅を小さくし、重大ではあるが長期にわたって継続する現象を持続的に報道していくための工夫が必要です。

マスメディアはリスクコミュニケーションの重要性を理解し、正確な情報をいち早く伝える公益的な機能を有していることを認識しなければなりませんが、その一方で、リスクコミュニケーションには、情報の一元管理などの名のもとに情報提供者側の意図的ないしは意図せざる情報操作が進行していく危うさもあります。本来のリスクコミュニケーションはそういうものではないのでしょうが、取材や報道の現場では、そうしたリスクコミュニケーションのリスクにも十分に注意を払い、社会的な情報の公開性を高める努力を重ねていく必要があります。

新型インフルエンザの流行は、発生すればたちまち世界に拡大する急性期の危機であり、ゆるやかに拡大するHIV/エイズの流行と同様の対策で対応することはできません。しかし、アウトブレーク前の期限の定かでない待機ないし準備期間には、HIV/エイズの流行からの教訓を数多く引き出し、対策に生かしていくことが可能です。

こうした観点からHIV/エイズ対策の経験を新型インフルエンザ対策に生かすことは可能なだけでなく、極めて重要でもあります。また、新型インフルエンザ対策をきっかけにして地球規模の新興感染症の流行に向けられた関心をHIV/エイズ対策にフィードバックさせる発想も必要です。人も物も情報も大量に国境を越えて移動するグローバル化の時代は、新たな感染症の時代でもあります。そのことを認識し、広い視野を保ちつつ個々の感染症の対策を組み立てていく姿勢が今後、ますます求めらることになるでしょう。

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